自分がどうして膵臓癌になってしまったかを考えてみると、世間での自分の振る舞い、
立ち位置に思い至る。
自分は学生時代を含め、社会で働くようになってからも、自分の居場所をうまく作れず、いつも隅っこのほうで鬱屈の塊のような存在であった。
端的に言えば、他者との交際がうまくいかず、いつも独りぼっちであった。
心の片隅には、夏目漱石の「行人」の主人公、一郎が「死ぬか、気が違うか、それで
なければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
これと同じ思いが、高校生の頃からあった。数少ない知人、友人は自殺を断行できた者も、意図せず、統合失調症になった者も、カルトと言われていた宗教に入って、
行方不明になっている者もいたけれど、自分にはその覚悟もなく、単にだらだらと
微温的でくだらない人生を50年以上も続けたというわけだ。
そして今、今、自分の膵臓に巣くっているという10センチある癌腫瘍というものは
まさに自分にとっての「他者」「社会」であると感じる。
もう無理をして「社会」に出る必要性はないんじゃないのか。
なにしろ私の腹の中には「他者」がしっかりと存在しているのだから。