Google提訴
病院の医師達がGoogleに書き込みされている口コミが、病院の利益を侵害しているとして提訴していますね。
一患者としては、それほど口コミを一方的に信じて病院を選びません。
病院側の被害妄想とすら思えるんですが、そうでもないのでしょうか?
これからの日本は人口が減少していくわけですから、医師達も高収入を維持する為に必死なのかも知れません。貯金五万円の私からすれば贅沢な悩みだと思います。
とはいえ、飲み屋でも客を取っただの取られただのとやってますから病院もプライドの問題なのかな。
Googleの口コミのせいで、患者が減ったらその病院は一人一人の患者に丁寧に時間をかけられるのだから、他の患者が行かないように、わざと悪評を流すことも可能性としてはあるでしょう。
それくらい、先生、先生と呼ばれて信頼されている場合もあるのでしょうね。病院としたら迷惑な話かも知れませんが。
標準治療
先日、抗がん剤治療3回目が終了しました。
前回、下がっていた血液の状態は、ほぼ正常値でした.
癌治療の区分けとして、無治療、標準治療、先進医療、自由診療と4つあるようです。
しかしながら、この区分けとは、経済的及び、科学的な観点から国が決めたものでしょう。
無治療とはいえ何もしないわけではなく、自分の免疫力によって癌を消滅してしまおうというラディカルな治療法です。
とても私には選択できないと感じております。
社会的な観点からの区分けではそうなるわけですが、地球からの観点ではこの4つは同じではないでしょうか。
人間も自然の一部であり、その人間が作る薬品も最終的には自然物だからです。
夏目漱石は、晩年に、「則天去私」を一つの理想としました。
これはエゴイズムの否定ではなく、むしろ肯定です。人間も所詮一つの自然であり、最近とても地震が多いですが、人間も怒りたいときは地震の如く怒り狂い、悲しいときは大型台風の如く泣き喚けばいい。
この4つの治療法は、私は同じだと感じております。
今回のアブ・ゲムのあとは足の痺れが出てきています。なんとかマッサージを自分ですれば大丈夫なレベルです。
次回は腫瘍マーカーを取るそうなので緊張します。ちなみに前回はCA 19-9は1400くらいでした。
副作用で心配なのは、鎮痛剤の影響で昼間も朦朧としていることです。変な気だけは起こさないようにしたいものです。海も山も自殺はしません。
墓
結婚しないで子どもも居ない私には墓は無用だと思う。
最近の墓地の中には、誰もお墓参りに来ない為に、雑草が生えて荒れ放題になっている墓も多い。
私が無理をして生前に墓を作ったところで同じことだろう。荒れ果てて忘れ去られるだけだ。
このブログにしても、死ぬ前に飽きて書くのを止めてしまう可能性も大きいが、いずれ、この世から忘れ去られる運命だ。
このブログは墓なのだ。
他の方のブログを拝見すると亡くなったときは、代わりに家族が代筆することもあるようだが、生前にやり取りがあったブロガーがお悔やみを書き込みをして、お墓の周りで人間らしい光景が広がっている。
日記ブログ、政治ブログ、闘病ブログ、アフィリエイトブログ、白バイ隊員のブログ、
全て墓なのだ。
それがどうした、という話しである。
告知というスイッチ
膵臓癌と告知されたとき、残りの余命一年どうすればいいのかと考えた。
しかしながら、時間が経つにつれ、
どうしようもない
なるようにしかならない
という想いに心が満たされてしまった。
先日、音楽家の坂本龍一氏の癌に侵された晩年をテレビで見た。私の見方ではあるが、癌に罹患の結果、音楽制作への意欲はさらに高まり、環境保護に対する活動も活発化したように思う。告知というスイッチが坂本氏に何かの作用を与えていたのだろうか。
映画では、黒澤明監督の「生きる」
役所勤めの主人公が、癌であることを自覚して、残りの人生を市民の為に奔走する。
自分の余命を自覚することにより、人間としての本当の生き方に目覚めるといった映画であった。
現実は世界的な音楽家や映画のようにはいかない。
それとも私のような怠惰で無能な人間でも、告知というスイッチを修理すれば何かをきっかけに人間性は変わるのであろうか?
生への恐怖
僕にとって生きることは恐怖である。
もちろん、時々は生きていることに楽しさを感じることもある。
死への恐怖というものは、結局のところ、楽しさと苦しみの割合で決まるのだろう。
生活の多くが、楽しみで彩られている人は死ぬことに対して恐怖を感じるけれど、僕のように生活に苦痛ばかり感じていると死ぬことに恐怖を感じなくなってくる。
今日は久しぶりに人と会話をした。
スーパーに、無塩煮干しを買いに行ったのだが、売り切れており、在庫があるかどうか店員さんに勇気を出して聞いたのである。
店員さんは丁寧に次の入荷日を教えてくれて、僕はとても嬉しかったのである。
些細な出来事かも知れないが、今の僕にとっては、10日ぶりくらいの人との会話であり、もう少し、治療や日々の生活を頑張ろうと思えたのである。
膵臓癌 告知の思い出
今週は抗がん剤の予定がなくなったので、癌の告知された時のことを思い出して悲しみに暮れていました。
それは、とある市立病院だったのですが、何日間かかけて、造影CT、MRI、EUSと進み、
癌ですよ、癌が見つかりましたよ、と大きな声で伝えられました。なんだか、車の運転中に白バイに威圧感を持って声をかけてかけられた感じで、思わず、
すいません!
と私は叫んでいました。
麻酔がまだ効いていたので、頭は朦朧としていたとはいえ、周りの看護師さんは失笑していたような感じです。
その後は一週間後に細胞診をして頂き、
癌の腫瘍位置、ステージ4 b、余命半年から一年と告知されました。
今はその市立病院からは転院し他の病院で治療しています。市立病院の医師は常に、やさぐれている感じで、印象は悪かったです。
転院した病院は、落ち着いて治療できているので、今のところ、悲しい思いはしないですんでいます。
盲目的な生存意思
膵臓癌の痛み対策として、オキシコンチンの錠剤を使用していたが、副作用の便秘が酷いので、フェンタニルパッチという貼り薬に変更して頂いた。
実際に使用してみて便秘の解消に効果があった。しかも、鎮痛効果も錠剤より効果があるようで私の体質には貼り薬の医療用麻薬が合っているようだ。
但し、傾眠傾向が強くなるので、貼ってすぐに車の運転はしないほうがよい。
背中の痛みが酷いので多めに医療用麻薬を処方してもらっているのでかなりの医療用麻薬が手元にある。これらをオーバードーズしてアルコールを多少摂取すれば絶命出来そうだ。
しかしながら私は自殺は否定する立場であり、どんな激痛にも耐えようと考えている。
何故なら私は自分の意思で生まれたわけではないと考えており、その出生との整合性を取りたいからである。なにゆえに、死ぬ時だけ自分の意思で行おうとするのか?
その意味では、日常の生活で努力があればどうにかなるとか、気の持ちようで世界は良くなる、病気も良くなるという考えは好きではない。
ショーペンハウアーも言っていたではないか。
「運命がカードを混ぜ、我々が勝負する。」